環境が人を変える

僕は東京で生まれ、4歳の時に埼玉に引っ越した。学生時代を埼玉で過ごし、20歳になった時にまた東京へと戻ってきた。過去に引っ越しをしたのはこの2回と、カナダ移住を含め全部で4回。引っ越しをする事により生活する環境は変わり、その環境によって僕自身も変わっていった。そこで今まで住んできた環境がどのように僕の人生に影響を与えたか振り返っていこうと思う。

東京で生まれた僕、、、う~ん、あまり覚えていない。断片的ではあるが、覚えていることを書いていこう。僕の父親は公務員なので、当時住んでいたのは荒川沿いにある5階建てほどの公務員宿舎だった。同じ宿舎には同年代の子供が住んでいて、よくその子達と遊んでいた。宿舎の敷地内や、荒川河川敷で年子の兄と近所の友達とよく走り回っていた。思い出そうとしても室内で遊んでいた記憶はあまりない。唯一覚えているのは、友達がスーパーファミコンを買ってその子の家でスーパーマリオをやっていた事くらいだ。この頃の僕は環境によって性格や生き方が変わっただろうか。まぁ、生まれた場所なので変わったというか、どういう人間になっただろうか、という事にしよう。

この時住んでいた環境というと、東京下町で荒川のすぐ横。この荒川沿いというのは確実に僕を外遊びの世界に連れ出した要因の一つ、そして家にパソコンやテレビゲームが無かったことも外遊びが中心であったことにつながっているだろう。詳しくどのような遊びをしていたかは覚えてないが、河川敷や家の近所で友達と走り回っていた記憶しかない。

埼玉での暮らし

そして5歳になる年に僕は埼玉県の坂戸市に引っ越した。環境が変わった事に対しては大きな思い出はないので、きっとうまく新しい場所に馴染めたのだと思う。そして坂戸に来て以来、僕は多くのスポーツを経験した。自分で親に頼んだのか、親が勧めてくれたのか、習い事をたくさんしていた。卓球、テニス、野球、水泳、そして冬はスキー。スキーは東京にいた時から年に一度の家族行事となっていた。小学校ではドッジボールやバスケットボール、陸上競技も楽しんでいた。だからと言って運動しかやっていなかったわけでもない、ソロバンと習字を習っていたのを覚えている。今思えば、こんなに沢山の経験をさせてくれた親に感謝である。さて、この様に習い事として僕に影響を与えた物事もあるが、坂戸市という場所に住んだ事によって僕が受けた影響について考えてみよう。

家族で川の字で寝る昔ながらの寝室

この時も公務員宿舎に住んでいた。各階に2つ入り口のある3階建ての宿舎。ここでもまた目の前に川があった。それ以外は一軒家が立ち並ぶ住宅街と団地、少し歩けば畑と田んぼしかないような場所だった。小学校が家の真向かいにあり、通学は徒歩5分もかからない。遅刻しそうになった時は学校のフェンスを乗り越えて、校庭を斜めに走り校舎の入り口へと息を切らして滑り込んだのを覚えている。近所には同年代の人がたくさん住んでいて、一緒に遊ぶ友達は沢山いた。

野球少年、竹内天平

小学生になった僕は習い事をサボっては友達と遊ぶことも多々あった。近所には公園がいくつもあり、遊ぶ場所には困らない環境。川に行けば魚や虫取り、そんな自然環境に恵まれた坂戸での暮らしは、もちろん外遊びが中心となった。10歳で少年野球チームに入ってからは野球が中心で、それ以外ではテレビゲームもやっていたが、やはり友達と外で遊んでいた記憶が圧倒的に多い。河川敷や木の上に秘密基地を作ったり、学校と習い事以外ではほとんど外にいた気がする。そんな環境で僕は中学生になるまでは、特に自分から何かをすると言うよりも住んでいた環境や交友関係に流されながら人生を送っていた気がする。なぜかと言えば、今思い返しても何か自分からやりたい事があって没頭していた記憶がないからだ。

ここで初めて自分でやりたいと思い、自分の意思で始めたことについて話そう。それはピアノだ。「え、ピアノ?」この話の流れでピアノ?と思うかもしれない。僕がピアノを始めたきっかけは、中学校のある同級生の影響だ。親友というほど仲が良くは無かったが、時折話す程度のクラスメートだ。彼は成績優秀で頭が良く、ピアノが弾けた。そんな彼は勿論学校行事の音楽祭ではピアノを担当で、僕はそんな彼がピアノを弾く姿を見て一目惚れしてしまったのだ。ピアノが弾けるってかっこいい!そう思った僕は母親に懇願して週に一度だったがピアノを習い始めた。それまでは音楽になんて興味のカケラもなかったのに、友人がピアノを弾く姿がカッコ良すぎて自分もこうなりたい!と思ったのだ。そして中学生になって野球部を続けながら頑張ったピアノ、残念ながら身につく事はなかった。身に付いていれば確実に今とは違う人生を送っていたと思う。

カメラを構える、中学生の僕

そして坂戸市での暮らしも10年近くになり、もっとも打ち込んだことといえば小学生からやっていた野球。しかしこれもやりたくてやっていた訳ではない、中学校に入学する時に年子の兄貴がサッカー部に入っていたので、僕はそれを避けて野球部に入った。続けた理由は、ただそれだけの事。確かに必死に練習して、3年生最後の夏の試合で負けた時は号泣したのを覚えている。しかしそれ以降続けようとは思わなかった。そして部活が終わったと同時に始めたのがスケートボード、何がきっかけで始めたかは覚えていないが、これをやりたいと思って自分で始めたのは覚えている。スケートボードはただ本当に楽しくて、好きでやっていた。だから一人でもずっと練習していたのを覚えている。近くにスケートパークや一緒にやる人も少なかったので、車通りの少ない道路や使われていないテニスコートで練習していた。高校に入学しても部活をやっていなかった僕は、授業が終わると一人でまっすぐ家に帰りスケートボードをしていた。高校2年になりスケートボードをする友達ができると、隣町のスケートパークに行ったり、大学生が集まる駅前広場でスケートをやり始めた。オーリーが大好きだった僕は、技の種類を沢山覚えようとはせずにオーリーの完成度をひたすら高めていった。当時、僕の最高記録は高さ90cm。田舎の誰もいない道で一人オーリーを楽しんでいた。今思えばあれだけの高さを跳べれば、オーリーコンテストに出場して日本の上位に食い込めたかもしれない。僕が住んでいたのが埼玉の田舎ではなく、スケート好きが多い場所だったら仲間と話してコンテストに出場していたかもしれない。後悔している訳ではないが、何か技を持っていても、それに挑戦できる環境でなければ僕は自分から動かなかった。

そして17歳の僕に更に転機がやってきた。次に僕が一目惚れしたのは英語だ。この出会いには本当に感謝している。タイムマシンで過去に戻れるなら、この時英語に一目惚れした僕自身にありがとうと言ってあげたい。英語に出会ったのは中学生の時、英語の先生が全く好きになれず僕の英語学習に対する意欲はゼロであった。勉強する気にもならない科目は、負のスパイラルに陥り成績は下がる一方。17歳の転機が来るまでは、高校のクラス内では常に英語の成績最下位争いをしていた。そして転機が訪れたのは、学校の修学旅行でオーストラリアに行った時だ。姉妹校の現地学生たちと触れあう機会があった。この時まだ英語なんていらないと思っていた僕は、日本人で集まり現地の学生と触れ合うことを避けていた。そんな中、日本の学生代表として学年委員を努めていた生徒が姉妹校の体育館でスピーチをしたのだ。その代表生徒は原稿を読みながら喋っていたが、僕は英語を使いこなす彼の姿に一目惚れした。何を言っていたのかは一切わからないが、とにかく英語がしゃべれるってかっこいい!と思ったのだ。修学旅行が終わり、日本に帰った僕はすぐに英語の勉強を始めた。放課後の特別英語クラスを受けて、親にお願いして家庭教師まで付けた。すぐに学校の成績がよくなることはなかったが、僕は必死に勉強した。学校の成績というよりも、あの学級委員長のようにカッコよく英語を話したい。その想いを胸に勉強したのだ。そして高校卒業後も英語学習への意欲は消えなかった。大学受験に失敗した僕は、東京にあるTemple Universityというアメリカの大学の日本校に入学するために浪人して英語の勉強をする事にした。その大学付属のESLに一年通った僕は、晴れてTemple Universityに入学することができた。

坂戸市に引っ越して16年、外遊びに夢中になった小中学生時代。その後は自らやりたい事を見つけて、ピアノ、スケート、そして英語の習得に没頭した。全てが実を結んだ訳ではないが坂戸市に引っ越してきたからこそできた事だと思う。何が良かったと断言することは出来ないが、はっきりと言えることはやはりその環境だからできたと言うこと。そしてその環境だから出来ないこともあり、その結果が今の僕である。要するに自分のやりたい事の為に環境や交友関係を自ら変えなかった時期だ。自分が置かれた環境に流されながら生きていたのだ。僕は決してこれを悪いとは思わない、なぜならその環境のおかげで今の僕がいるから。そして、こう言ったことに気付けたからだ。

Temple Universityに入学した僕は東京に引っ越す事を決めた。なにせ坂戸市から通学するには2時間を要し、朝8時から始まる授業に毎日通うのは大変だった。そして何より、通学で毎日4時間を無駄にする事が一番許せなかったのだ。こうして親の仕事で引っ越してきた坂戸市での生活に終止符を打ち、自らの意思で東京へと引っ越した。これまで自分の置かれた環境を変えようとはせず、流されてきた僕だがここで自分の意思で環境を変えた。そして東京に住み、新しい流れに身を任せることとなる。

東京で住む事になった家の間取りは2DK、同時期に同じ大学に入学する事になった友人と一緒に住む事にした。とても気の合う友人で、一切の苦もなく楽しい東京暮らしが始まった。英語を勉強することだけに集中してきた僕は、大学で学びたい事は決まっておらず入学してから専攻を選ぶ事になった。ESL時代からの友達と相談して一緒の授業を取った。ここでも周りに流されていたが、目標が決まってない限り走り出すこともできなかったので、その場の流れに合わせて授業の選択をしていたのだ。そしてこの時、僕は芸術に出会った。デザインとドローイングの授業を受講して、自分の絵の下手さに驚愕しながらもデザインには興味を持った。そしてこの時に講師をしていた教授に写真をやってみないか?と誘われ、次の学期で芸術写真の授業を選択した。ここで教授からの誘いがなければその授業は取らなかっただろう。そして20歳の僕は、それ以来長い付き合いとなる写真と出会ったのだ。

授業が始まるにあたり一眼レフカメラとレンズを買い、写真を学び始める。何度か授業を受けて、僕は完全に魅了されていた。これだ!と思った僕は写真に夢中になった。学校外でも一人で写真を撮る時間が増え、大学の友達と遊ぶよりも写真をしているのが楽しくなっていった。そして写真の授業を初めて受講した学期の終わりには、写真家になることを決意していた。その後はより写真を理解するために大学以外でも写真の短期専門学校に通うなど、僕の生活は写真中心になっていった。自分で決断を下してからは僕の人生は更に変わっていった。写真スタジオでアシスタントをやったりもしたが、自分が撮影したい物を考えたときにスタジオでの撮影では無く屋外での撮影がしたいと思った。そして小さい頃からやっていたスキーの延長で、スノーボードをしていた僕はこの趣味で楽しんでいたスノーボードを撮影しようと決めたのだ。そして写真家として活動する拠点を探し始め、東京を離れて雪山の近くに住むことを考え始めた。海外移住の夢があった僕は、どうせならウィンタースポーツが盛んな海外の街に住み、そこで写真家を目指そうと決めてカナダ移住の道を選択し、22歳になる年の春にカナダへと渡った。

埼玉から東京に移り一年強、僕自身の意思で環境を変えて生活を送ったこの期間は僕の人生で最も重要な時期だったかもしれない。『自分の意思で』と言う言葉を聞くと流されているようには思えないが、なぜこうなったかと言うとそれまでの埼玉での生活が関係してくる。坂戸市という環境の中で僕はその流れに身を任せて生活してきた。ピアノやスケート、それ以外にも小さな変化と出会いがあったがこの坂戸という環境から移動すること無く16年の日々を送った。きっと僕はその時間の中で流されてはいたが、この『流れ』は僕に合わないと気づき始めたのだ。そして変化を求めて東京へとやってきた。そして東京と言う新しい環境に身を置き、新たな生活が始まる。埼玉では車通りの少ない道でスケートをしていたが、東京に来てからはスケートパークに行くようになった。そして自転車で通学できる距離だったので、ロードバイクも始めた。クライミングも始めたが、近所に自然環境がなかったので室内ジムでのクライミングだ。このように東京に住む事によって、同じスケートをするにもその環境が変わった。通学に4時間を使っていたESLの時には不可能だったアルバイトも始めたし、大学の友人と遊ぶ時間も増えた。環境が変わり、付き合う人も変わり、自分を取り巻く生活の流れが変わっていった。そして写真に出会った僕はこの『環境の変化』と言うことの意味に気づき始めた。それまでは自分が置かれた環境に合わせて人生を送っていたが、自分が心地いいと思う環境に身を置いて生活することが重要なのだと。自分がやりたい事が揃っている環境に身を置けば、流されやすい僕は自然とやりたい事をやる。今住んでいる町に定住し続ける理由も、僕がやりたい事が町の周辺で全てできるからだ。

スコーミッシュ

僕は流されることは決して悪くないと思う。自分が置かれた環境に身を任せて、その場の流れに合わせる。それが自分に合わなければ、また新たな環境に身を置いて流される。それを繰り返せばきっと自分に合った環境を見つけることが出来る。そうやって流されてきた僕は、自分と調和の合ったカナダの大自然に囲まれた町で写真家として活動している。